昭和五十六年一月十三日 朝の御理解


御理解第四十五節
「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振り上げたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」


 今朝から頂きましたお知らせに、食後に果物を頂きます。その私が、いつも頂く果物の皿に梨が頂くばっかりにして出ているところを頂いて、次にはやっぱり同じ器に、まあ本当の時期の時の柿が皮を剥いて、いく切れか置いてある。ちょうど食後に頂く果物を頂くように梨と柿が二皿出ておるという訳です。
 食後に果物を頂くという事は、まあどういう意味か知りませんけれども、消化を良くするというふうに今は頂いて、頂きたいと思います。
 頂いたもの消化を良くする事の為に、まあ果物を頂くと。そうではないかもしれませんけれども、私はそう感じた。こうしてお互いに日々御教えを頂いておりましても、本当に腹いっぱいになるような感じで、皆さんの場合は盛り沢山ですね、教えが。
 ですからいっぱいなんです。ですから、それが消化しなければ、消化されなければ、かえって頂いたものが胸につかえるといったような事にもなりかねません。それには今日、私が頂きました果物が印象的であったという事は非常に新鮮なものである。新鮮な梨であり新鮮な柿であった。
 勿論果物には特に新鮮さが値打とされておる訳ですけれども、信心もやはり、その新鮮な、いわゆるフレッシュね、そういう気分がなからねばいけません。いわゆるマンネリ化してはいけません。心が古臭くなってはいけません。新鮮な生き生きとした三代金光様は、そういうところじゃないでしょうか。「信心は日々に新」とおっしゃております。日々が新だと。日々(にちにち)が新しい。それにはどういうような信心をさせて頂いたからというと、結局無しだと思うです。
 本当言うたら、いわゆる自分を空しゅうする。無の状態、又は無条件。今度の福引、御理解付きの福引会の時に、秋永文男先生が無条件というくじを引き当てておったですね。まああの人の信心を、皆さんが見ておられると、無という事の意味が分かるように思います。なかなか完璧とかいう事はでけませんに致しましても、あの人にはお参りとか御用とかいう事に条件が無いように思うです。こういう信心をして徳を受けんならん、力を受けんならん、おかげを受けんならん。特に私の御用をしてくれます時なんかに感ずる事は条件があってやっておるのじゃないというような感じが致します。
 まあ私が今日頂いた梨のお知らせ(無し)はそういうものだと思います。もう目に見えておる、いうなら見え透いたような信心をする人が中にはあります。これこれだけの信心をするから、これだけの事は、いわゆる条件、無条件じゃなくて条件付きで信心をする。条件付きの信心では、今日の御理解を頂きますように、おかげを頂けば慢心が出る。おかげを頂かなかったら信心が挫折してしまう。目当てが違うから、おかげ頂きたいばっかりに参っておるんだというなら、おかげ頂かなかったら参らんごとなる。
 そういう事は無条件。ただただ自分の心の中に感じる、又は頂く。有難い自分の心の中に頂く、何かをそこに感ずる信心を頂かなければ頂けない心の状態が心に開けてくる。それが楽しみであるというような信心。無条件の信心。こりゃ大変意味が難しいですけれども、まあ一番手取り早う、今申しますように秋永文男先生が信心を御覧になるといいです。ははあ、ああいう信心が無条件の信心だなあ。だから神様も又無条件でおかげを下さる。間違いないです。神様から無条件で頂くようなおかげを頂きたい。
 それにはやはり三宝様を踏むな。三宝様を踏むと目がつぶれるとこう。目がつぶれるという事は分からなくなってくる。三宝様と言うのは大切なものという事でしょう。ねえ、これは仏教の言葉でしょうけれども、仏教ではこの三つの宝というのを仏法僧と言う。仏様、教え、そしてそれを取り次いで下さるお坊さん。まあ金光教でも同じような意味の事を申しますね。
 先ず、神様を大事にする。金光大神様を大事にする。それから特に教えを大事にする。いうならば取次の先生を神様と思うてというようにまあ教えます。だから、合楽ではそれに自らの心をと申します。自分自身の信心、だから四宝。三宝じゃなくて四宝とこう言う。その自らの心を大切にするという事は、心の中にいわゆる我情があってはならん。我欲があってはならんと我情我欲を取り外す。取っていく事に精進をする訳。いうならば自分の心の中に汚い条件というものを取ってしまう。いうならば無条件の心の状態になる。そこから期せずして頂かれる心が有難いという心であり、勿体ないという心である。
 これは頂こうとして頂けるもんじゃない。神様が下さるもの。けれども、どういう状態の時下さるかと言うと無条件、我情が段々蔭をひそめてくる。我欲が心から除かれる。いわゆる無しの状態。その無しの状態もどこに、いわゆる私が今日頂いた柿のお知らせ。柿というのは木へんに市という字が書いてありましょう。これは久留米市なら久留米市の市という字です。市(いち)とも読みます。
 結局心ひとつという事なんです。いうならば一心という事なんです。無条件、そしてそこに一心。それこそねえ、いろんな例えばお互いが一生をいろんな成功もしたいお金持ちにもなりたい。そして一生懸命に人が一時間勉強するなら二時間も勉強して、まあ学問をする。沢山お金を貯めたいと思うから、もうそれこそ夜も昼もないようにして働く。
 そして学も成った。いうなら成功も地位もでけた。家も立派になった。財産もでけたと。六十になった、七十になった。果たして自分の一生というものが、只お金を貯める為だけ、家を立派にする為だけ、名を高めたり地位を得たりする事の為に自分の一生があったんだろうかと自分の一生を振り返ってみる時にです、この地位がなんになるのだろう。この家やら財産が何になるのだろう。あの世に持って行ける訳でもない。よし、これを子供に残すからというても、なら子供が、この財産によって果たして幸せをするだろうか。むしろこの財産で子供が出来そこなうような事は無かろうかと。いろいろと思うてみる年頃になってくると寂しゅうなってくる。
 はあ自分の一生というものは、只お金お金、地位地位、名誉名誉と思うてきたけれども、果たしてこれが自分が、あの世に持っていける何物もない事に気が付く時に、初めて世のはかなさというものを感じる。ところがです、お互い信心をさせて頂いて信心も、いわゆる真の信心、真の信心をさせて頂いて、これが力であろうか、これがお徳であろうと思われるようなものが心に伝わってくる、でけてくる信心をすれば一年一年有難うなってくると仰せられる。信心をすれば年を取る程位がつくものじゃともおっしゃる。
 だから、その位のつくような信心、一年一年有難うなっていくような信心、そしてこれだけがあの世に持っていけれるんだ。あの世に持っていけるのは、この自分の心の中にある喜びだけが、魂が清まるおかげで徳を受けた、力を受けたという力、徳だけがあの世に持っていけれるんだと分かれば分かる程、自分の生涯というものは輝かしい有難いものになってくる。
 けれどもね、信心も、それこそ先日から言うように自分の言うてきた事は、みんな空事であった。この世に真ある事無しといったような信心じゃいかん。寂しゅうなる。極めに極めていってです、寂しゅうなるような信心じゃいかん。自分の心が賑やこうなり、自分の心が成程、いわゆる真から真を求めていくのですから、過去に思うておった、本当と思うておった事は、より本当な事になっていっておるのですから、嘘になるかもしれませんけれども、そこには、その時点時点で、その真次第のおかげが心の上にも形の上にも頂けておるという実証を積み上げながらの信心でなからなければいけない。
 私は今朝方、お夢、不思議なお夢を頂いて意味が分からなかったけど、今こうやってお話しさせて頂いておる中に、ははあこういう事だったんだなあと、今分りかけておる事なんですけれども。もうそれこそ断崖絶壁といったような、その所に段々がついておるから、段々上がって行った所がちょうど、あの縄梯子みたいなような頑丈な縄梯子が上から下がっておる。それが、こう山が凹んでおるから宙にぶらぶらしておる。それでも腹を決めたら、兎に角こんな頑丈な、あの縄梯子だから切れるようなこつ、兎に角足をふんまえて、手で確かにしっかり握ってさえいきゃ上に上れると腹が決まったから、それを上がって上へ登った所を頂いた。だから握ってさえ、握っているのをはずしさえせにゃ大丈夫。又足をふまえておる所をはずしさえしなきゃええと腹が決まって上がった。上がった所が上にはね、寂しい、それこそ寂しい寂しい感じのお寺さんともお宮さんとも分からんような、まあ荒廃しきった感じの所に出たんです。それから、こっちの方を見ると、そういう縄梯子のようなものを渡らなくても小さい道があって、ずうっと少し遠回りになっても、道がついておる道があるんです。ところが、その道を段々、段々こう見ておると結局薮の中に入ってしまっておるという道であった。
 それで、今私が、お話しながら思うておる事が、私どもが、いうならば一段一段信心を進めていく。そしていよいよ上に登る前には、それこそ危険を感ずるような所もあるけれども、はずしさえしなければよいという所がある。多少間違えさえしなければ良いという、まあ勇気を出して、度胸を定めて上に登った。上がった所が上は賑やかな所でもなからなければ立派な所でもない。寂しい感じの所であるという事がそうなんだ。段々年を取るにしたがって寂しゅうなる。
 けれども一番上の所の寂しい所の場であっても、合楽の信心というか金光様の信心は上がれば上るだけ力がつくのであり、上がれば力がつけばつくだけおかげの世界はあるのだと。そして終着の所が、例えば死なら死というものが悲しいもの寂しいものであったに致しましてもです、上がっただけにそつは無い。ところが同じ信心を求めてもねえ、いうならば道があるから、その道をずうっと辿っていっておったら最後は、もう薮の中に入って行ってしまって、いよいよ分からなくなったという、その二つの上がり方というものを夢の中に感じてね、皆さんに聞いて頂いておるような事を感じたんです。
 信心をするというてもです、兎に角例え行き着く所は寂しい所であってもです、その道中に於いて度胸がでけ、又は力がでけその度胸がでけただけは、おかげになっていっておる。力がでけただけは、おかげを受て来ておる。と、よくはその意味は分かりませんけれども、例えていうなら親鸞上人様じゃないけれども、一生懸命信心の道を辿られた。それはお釈迦様が残された教えというもののはっきり道があるから、その道を辿っていかれた。だから、いかにもすんなりとゆうようにあったけれども、結局は薮の中に入ってしまって、いうならば出る所に出られんなりに終わってしまうというような感じの宗教が沢山なんです。極めに極めれば、もう本当にいうならば自殺行為にでも走るような人達が出けてくるような感じが致します。
 お道の信心をさせて頂いて、いうならば三宝様踏むなと仰せられる。三宝様を大切にする。合楽では、いうなら四宝様という事になりましょうか。その三宝に、もう一つ心というものを大切にさせて頂きながら信心を進めていく。いうならば、手応えのある信心をさせて頂く。そして自分の、まあ過ぎ来し方を思うてみた時に段々、さあこれが信心の位というものであろうか。これが一年一年有難うなってくるという、その有難いというものが自分の心に確かに感じられる、そういう信心をお互い目指させて頂く。
 それにはどうしても、いうならば自分というものを無しにしていかなければならん。段々空しゅうしていかなければならない。いや、いろんなお願いがあるけん参りよると。成程お願いがありよるから、願いがない事はない。誰でもある。
 けれども、お願いさせて頂いたなら、もう後は無条件、神様におまかせをするという心。それもね、ここに頼んだ、あすこにも頼んだ、人間心でどうこうというのでなくて神情一筋、柿一筋でいくのである。心ひとつにしての、いうならば心を空しゅうするという。まあこうしてお話をすると大変難しいようですけれども、合楽の信心に焦点を置いてまいりますと、それが何時の間にか身に付いてくるおかげになってくる。
 昨日は美登利会でしたが、そこの久保山さんが発表しておられましたが、もうあの人のお話はいつも今朝から只今迄のお話をされますが、もう成り行きを尊ぶ、成り行きを大切にしておると、もうずうっとお話なんですね。やっぱり。いわゆる成り行きを大切にさせて頂いて、何時の間にか我情がなくなり我欲がなくなり、そういう手立てが合楽理念の中には、こう説いてありますから、それを聞く時には、いかにも難しいごたるけれども、一つでもそれを本気で、いうならば柿の心で、梨の心、自分を空しゅうしてゆくという事は、何時の間にかでけていきよる。
 昨日、一昨日が合楽の共励会であった。まあお正月でしたから、ちょっと正月のしるしや何かをされて、まあ嫁があれが色々とまあやってくれて、初めて嫁が共励会に入って、あの発表、お話をしておりましたというお話をしておられました。
 私は、家のお母さんが有難か有難かち、ずうっと言っとんなさるばってん、そん何が有難かじゃっちひとつも分からんて。嫁さんが言うて話したそうです。けれども、もしお母さんがありしこ有難い有難いと言いなさる金光様だから、もし年をとんなさって手が不自由になり足が不自由になんなさったなら、私は必ず手を引いてお参りしようと思いよりますという発表をしてくれという話をしておられました。
 何時の間にか位がついてくるという事が分かるでしょうが。何時の間にか、いうならば成り行きを尊ぶとか、大切にするという事だけでもです、我情が取れ、何時の間にか我欲が取れ、取れただけはおかげになっていっておるという話をされておりましたが、お話を聞いておると難しい事のようにあるけども、本気で一つの事に取り組んで、それを改まる心をいよいよ大切にする手立てをしていっておりますと、例えば夢に見るお話なんかは、いかにも大変難しかごたるですね。断崖絶壁の所に上がっていかんならんというのです。けれども、そこにはちゃんと手立てがあって上がれるように、いうならば手立てが出来てくるのですから楽しゅうなってくる。
 そういう信心をいうなら間違いのない信心。合楽のいうなら信心をさせて頂いとれば、教祖様がここに教えておられるように、慢心が出るような事はなかろうというふうに思います。それを違った道の方を進めていっておると自分はここまでも勉強した、ここまで自分のものになったといったような慢心が出るかも分かりません。兎に角三宝様踏むな。まあ合楽では四宝様踏むなという生き方をいよいよ身に付けていきたい。どうぞ。